1.11.2014

迷走する南スーダン:新国家における政治危機




迷走する南スーダン:新国家における政治危機

村橋勲(日本学術振興会特別研究員/大阪大学人間科学研究科)

南スーダンからの退避
昨年1222日。南スーダンの首都ジュバで起きた銃撃事件から一週間が経過していた。朝8時半、私は市内のホテルを出てジュバ空港に向かった。隣国へ向かう航空機はいずれも満席で予約できなかったが、空港で空席待ちをすれば席が確保できるかもしれないという話を聞いたからだ。国際空港とは思えないほど小さなジュバ空港は、南スーダンから退避しようとする外国人でごったがえしていた。この混雑のなかでどうやって飛行機に乗れるのかと当惑しながらウガンダ航空のカウンターに行くと、幸運にもわずかに空席が残っているという。急いで席を確保してもらうと、まもなく出発するのですぐに乗ってくださいと指示され、貴重品だけをもったまま飛行機に飛びのった。


飛行機が高度を上げると、窓の外にナイル川とジュバの市街地が見えてきた。土埃で靄がかかったように見える街並みを眺めながら、ようやく混乱を抜け出したという安堵と、残された人たちはこれからどうなるのかという不安が交錯した。今朝、南スーダンの友人と電話で話したことを思い出した。彼は、銃撃戦のさなか、軍によって自宅が襲撃され、今は親戚の家に身を寄せていると力なく話していた。政治的対立とは何の関係もない彼がなぜこのような目にあうのか。やり場のない怒りと悲しみがこみあげてきた。
もともと私が南スーダンを訪れたきっかけは、この新しい国家において、地域社会が内戦後にどのように変化していくかということに関心を抱いたことだった。現在は大学院の博士課程に所属しているが、大学院に進む前は、報道カメラマンとしてマスメディアで勤務しており、南スーダンの独立はニュースを見ながら知った。報道の仕事をしていたためか「世界で一番新しい国」「内戦後の社会」というフレーズに何か予想もできない未来を目にするかもしれないというぼんやりとした期待感のようなものを抱いていた。大学院に進学し、フィールドワークをする場所として選んだのは首都から約200キロ離れた農村地域である。調査地がある東エクアトリア州は第二次内戦中の激戦地のひとつだが、独立後も民族集団間やコミュニティ間の対立が問題になっており、こうした葛藤も地域社会の復興を遅らせている要因のひとつとなっている。
 ジュバで銃撃戦が発生した頃、私はフィールドに行くために、その中継地である東エクアトリア州の州都トリットに滞在していた。翌朝、ジュバにいる友人たちからの電話で初めてジュバで激しい銃撃があったことを知り、その後の戦闘の経過も友人たちから教えてもらった。その後、数日トリットに滞在したが、ジュバでの戦闘が少し収まった時を見計らってトリットからジュバに戻り、その翌日に出国することができた。


しかし、南スーダンは、明るい希望に満ちたものではなく、再び暗い混沌の中へと落ち込んでいくかのようだ。20117月、スーダン南部は、22年間の内戦を経てスーダンから分離独立し、南スーダン共和国として誕生した[1]。しかし、独立後も石油をめぐって北のスーダンと係争関係にあり、また国内の一部の地域では、新たな反政府活動が起きるなど治安は不安定なままだった。そして201312月、首都ジュバでの銃撃を皮切りに、国内各地で大統領派の政府軍と元副大統領派の反乱軍との間に激しい戦闘が勃発し、新国家は再び内戦の危機を迎えている。

戦乱の背景:与党内の政治的対立と地方の民族集団内、集団間の対立
なぜこのような危機的なになったのか。そこで、まず今回の戦乱の政治的、歴史的背景と一連の戦闘のプロセスを紐解くことで、独立後の南スーダンが抱え続けている問題と今回の紛争との関連性を示そう。日本を含め海外メディアは、今回の戦闘をサルバ・キール現大統領の出身であるディンカ族と、リエック・マチャル元副大統領の出身であるヌエル族との民族対立として報道することが多いが、南スーダンの国営メディアは、一貫して民族対立よりも政治的対立を強調している。この両者のズレを埋めるには、今回の戦乱で何が起きているのかを詳細に見ておく必要があるだろう。そのためには、国内外のメディアの情報と政府の公式発表によらないさまざまな情報、意見をくみ取る必要がある[2]。また、南スーダン人国内で、この戦闘がどのように捉えられているかということも重要な視点である。そこで、私の調査地域である東エクアトリア州の状況と、今回の戦乱が彼らからどのように見えているかを考えていきたい。
 今回の戦乱は、1215日夜に起きたジュバ市内での大統領警護隊の兵士間の銃撃が発端だったが、現在、各地に飛び火した戦闘は主にサルバ・キール大統領の指揮下にある政府軍とリエック・マチャル元副大統領を支持する反乱軍との間で行われている。前者は南スーダンにおいて最大多数を占めるディンカ、後者はディンカに次ぐ人口を占めるヌエルの出身であり、いずれもSPLM/A(スーダン人民解放運動/軍)結成初期からの政治家かつ軍人である。2010年の大統領選でサルバ・キールが大勝した後、リエック・マチャルは副大統領という要職に就任したが、2012年頃から、マチャルをはじめ複数の政治家たちは、キール大統領の独裁志向、経済政策の失敗、部族主義と縁故主義を批判するようになり、民主的な政治改革の必要性を唱え始めた。そのようななか、20137月にサルバ・キール大統領は、汚職追放を名目に、リエック・マチャル副大統領をはじめ全ての閣僚と与党SPLMの主要幹部を一度に解任し、大幅な内閣改造を行った。この時、国内では激しい暴動は起こらなかったものの、現政権に対する批判はさらに強まり、キール大統領とマチャル元副大統領相互の不信感は深まっていったと考えられる。そして、2015年の次期大統領選を控え、リエック・マチャルの他に、故ジョン・ガランの未亡人ニャンデン・ガラン、そしてパガン・アムンSPLM書記長が出馬の意思を表明していた。この大統領派とそれを批判する政治家たちの政治的対立が、今回の戦乱の最大の要因である。
 もうひとつの戦乱の下地となっているのが、国内各地における民族集団間、集団内の対立である。2005年のCPA(南北包括和平合意)による内戦終結後、国内での紛争は収束するかに思われたが、現実には各地でさまざまな集団間の対立が継続し、そして新たな反政府組織も活動を始めた。もっとも激しい対立がみられたのはジョングレイ州である。ジョングレイ州には、ディンカ、ヌエル、ムルレなどの民族集団が暮らしているが、彼らはいずれも牧畜民であり、ウシは財や婚資としてだけではなく、彼らの文化的価値観を形成する家畜である。しかし、ウシに付与された高い価値と、放牧地をめぐる争いのために、幾度となく民族間あるいはクラン間での戦いを引き起こされてきた。こうした争いは内戦中に、1991年以降のSPLAの分裂[3]や出身民族、クランを基盤とする軍閥どうしの争いによって民族集団同士の争いが激化し、民兵組織や多くの住民が銃で武装するようになったため、さらに大きな被害が出るようになった。内戦後、政府は各民族集団に対して武装解除を求めたが、武装解除に対する姿勢は地域で温度差があった。しばしば政府は住民に対して強制的に武装解除を進めたが、先に武装解除に応じた民族集団が敵対する民族集団に攻撃されるということが起きたため、集団間の緊張と武装解除に対する不満が高まり、一度、武装解除に応じた住民たちが再武装するようになった[4]
また、2011年からは、ムルレ人のデイビッド・ヤウ・ヤウがジョングレイ州で反政府活動を始め、SPLAと激しい戦闘を繰り返していた。彼は2010年の大統領選に出馬したが、落選し、SPLAに復帰したが、キール現政権に対する批判からムルレ人を中心とした反政府組織を結成した。
 内戦後の各地の紛争は、一見、ウシの略奪や牧草地、水場、土地争いなど伝統的なローカルな集団間の対立にみえるが、民族対立の要因を生み出している要因のひとつは強制的で一方的な政府の施策にある。内戦後、蓄積された政府への不満が今回の大規模な反乱を生み出す土壌を形成していたと言えるだろう。





地図 :南スーダン(Wikipediaより)


作りあげられたクーデター
1216日、サルバ・キール大統領は記者会見で「元副大統領とその一派によるクーデターは未遂に終わり、クーデターの容疑者を拘束している、ジュバの治安は政府軍がコントロールしている」と発表し、この会見は国営テレビはじめ海外メディアでも放送された。しかし、翌日も銃撃は続き、各国大使館は南スーダンに滞在する自国民に対して退避を促し始めた。結局、ジュバ市内の銃撃は18日まで続き、政府は、この銃撃戦による被害を死者約500人、負傷者700人、避難民6万人以上と公表した。以後、政府はこの銃撃戦を「クーデター未遂」と表現するが、事件の詳細については明らかにしなかった。ところが18日、クーデターの主犯とされたリエック・マチャル元副大統領は、メディアに対し「銃撃は大統領警護隊内の誤解から生まれたもので、私も含め与党内の誰ひとりとしてクーデターとは何のかかわりもないし、政府内の批判を取り除くために大統領がでっちあげたものだ」と発言した。
「クーデター未遂」事件とは、一体何だったのか?それは本当にクーデターなのか、あるいはディンカとヌエルの民族間の戦闘だったのか?この疑問に対し、もっとも詳細で説得力のある説明は、今や反体制派とされている元高等教育大臣Peter Adwokによるものだろう[5]。彼によると事件の真相は次のとおりである。
1215日、国民解放評議会で反大統領派の退席によって失敗に終わった後、キール大統領は大統領警護隊[6]に武装解除命令を出した。しかし、数時間後、ディンカ兵にだけ再武装が認められたため、ヌエル兵の間に反発が広がり、兵士同士の喧嘩、そして銃撃に発展した。翌日、軍駐屯地から追い出されたディンカ兵が携帯電話を使って「ヌエル人と戦闘になり、町を追放された」と仲間に連絡すると、市内各所にいた武装したディンカ人たちが、家々を回りヌエル人を標的にした一般市民の虐殺を始めたのだ。同日、キール大統領は記者会見を開き、マチャル元副大統領によるクーデターの未遂と夜間外出禁止令を発表した。しかし、反大統領派がクーデターを起こしたわけではなく、大統領が、政権に批判的な政治家たちを弾圧し、ヌエル市民を虐殺するために、銃撃戦をクーデターとでっちあげたようだ。事実、夜間外出禁止令の間、ジュバで起こったことは、反乱軍との衝突ではなく、大統領警護隊や政府軍による反大統領派の政府高官の拘束であり、また、ディンカの民兵組織[7]によるヌエル人や他の市民に対する虐殺、レイプ、強盗だった。国連の敷地に逃れたヌエル人の証言から、殺害された人たちの遺体は人目につかないように夜の間に集団墓地に埋められたと言われている[8]が、政府は市民の虐殺については公表しておらず具体的な人数は把握できていない[9]。南スーダン政府は、解任された前財務大臣らクーデターの容疑者10人の拘束を発表したが、一般市民に対する虐殺について何も公表していない。しかし、大統領の声明にもかかわらずジュバ市内で銃撃が続いたこと、クーデター容疑者がわずかなボディーガードしかいない状況で自宅逮捕されたこと、国連の敷地に逃げてきた人々の大半がヌエル人であり、彼らが虐殺を証言していることなどから考えると、ジュバ市内の銃撃が、反大統領派によるクーデターではなく、政権に批判的な政治家の粛清とヌエル市民の弾圧のための口実として大統領派に作り上げられたものである可能性は高い。
 ここで指摘しておかなければならないのは、サルバ・キール大統領とリエック・マチャル前副大統領との政治的対立は必ずしもディンカ対ヌエルという民族対立ではないということである。大統領派とされる政治家の多くはヌエル人であり、その一方、クーデターの容疑をかけられている反大統領派16人のうち、ヌエル人はリエック・マチャルを含め4人だけで、それ以外は、レベッカ・ニャンデンをはじめディンカやシルック、エクアトリア州の出身者である。つまり、政権内での対立は、ディンカ対ヌエルという民族対立ではなく、独裁を強めようとするキール大統領とそれを批判するSPLMの政治家たちの対立である。

各地に広がる反乱
キール大統領は、クーデターを口実に反大統領派の政治家たちを次々逮捕していったが、その頭目とみなしたマチャル元副大統領の身柄を確保できなかった。そして、ジュバの銃撃戦は国内各地に飛び火し、ヌエル人の軍閥や民兵組織による蜂起が次々と起こっていった。
反乱ははまずジョングレイ州から起きた。1218日、ヌエル人のピーター・ガデット将軍が、ジョングレイ州の州都ボルを制圧し、マチャルへの支持を表明した[10]。有能で勇敢な司令官と怖れられるガデットは、ヌエル人のために戦う軍閥でもあり、1991年のSPLA分裂時以降には、スーダン政府の支援の下、SPLAトリット派と戦った。内戦後はSPLAの司令官に復帰したが、キール大統領を批判してSPLAを離反していた。
ジョングレイ州の都市アコボでは、国連PKOの基地内に逃げ込んだ数十人のディンカ人を追って、約2000人武装したヌエル人が国連施設を襲撃した。これに応戦した国連軍のインド兵士2人と主にディンカの市民30人が死亡した。各地で反乱が広がるなか、マチャル元副大統領は、キール大統領の辞職を要求し、現政権を打倒する意思を表明した。
その後、ボルでの攻防は一進一退となった。1224日、政府はボルを反乱軍から奪還した[11]が、その後、25000人からなるヌエルの民兵組織、白軍[12]が、ボルに迫っているという噂が流れた。ことしに入り、マチャル派の反乱軍が政府軍と交戦し、ボルは反乱軍が再制圧した。この戦闘でSPLAの将軍が死亡し、戦車を破壊されるなど大統領側に大きな被害が出た。
ユニティ州でも両派の抗争が激化した。1219日、主要な油田地帯であるユニティ州の州都ベンティウでSPLA兵士どうしの銃撃戦が発生した。また同日、石油会社で働くディンカ人とヌエル人の間でも衝突があり、200人以上のディンカ人が国連の敷地内に逃げ込んだ。21日には、ヌエル人のSPLA司令官ジェームズ・コンが、SPLAから離反した。彼は、マチャルへの支持を表明し、州知事の解任し暫定統治を始めたと述べた。また、18日から19日にかけて、SPLAの戦車部隊が彼を殺害しようとしたため交戦となったが、逆にこの戦車部隊を撃退し、ベンティウとその他の北部地域を制圧したと話している。23日、政府は、ユニティ州が反乱軍の支配下にあることを認めた。ことしに入って、キール大統領は、ジョングレイ州とユニティ州に非常事態宣言を発令し、ユニティ州では政府軍と反乱軍との激しい攻防が続いている。また、石油会社の従業員はすでに退避しており、ユニティ州の石油の生産は停止している。
さらに反乱はもうひとつの油田地帯である上ナイル州にも広がり、1222日、SPLAと反乱軍との間で戦闘が起き、反乱軍が上ナイル州の州都マラカルを制圧したが、28日にはSPLAが奪還している。現在、上ナイル州では、マラカルと油田地帯を政府が制圧しており、それ以外の地域は反乱軍が支配している。政府の管理下で石油の生産は続けられている。また、ことし14日、中央および西エクアトリア州でもSPLAの一部の部隊が離反し、キール大統領に対する反乱は各地に広がっている。
これまでの戦闘をまとめると、ジュバから始まった銃撃は、各地のヌエル人の軍閥や民兵組織の蜂起につながり、10州のうち5州でSPLAと反乱軍との戦闘が起こっている。アジスアベバでの和平会議を前に反乱軍が攻勢をかけ、ジョングレイ州、ユニティ州、上ナイル州では反乱軍が優勢である。軍閥が率いる軍隊や民兵組織は同一の民族、クラン出身者から構成されていることが多い。今回の戦闘の拡大をみると、政府によってディンカとヌエルという民族対立が煽動され、各地のヌエル人の軍閥や民兵がリエック・マチャルを支柱にして反乱を起こしたと言えるだろう。国連の発表によると、これまでの戦闘では、確認されただけで1000人以上が死亡し、6,2000人以上が国内避難民となっているが、実際には数千人の犠牲者が出ており、今後さらに被害は拡大すると予想される。

国際社会の動向
次に、国際社会の動向に目を向ける。ジュバでは18日以降、いくぶん治安が落ち着き、ジュバ空港が再開されたため、各国の人たちの退避が次々と始まった。また、ウガンダ、アメリカ、中国、イギリスなどが各地で自国民救助のために動き出した。1221日には、アメリカ人救出のため米軍のオスプレイ3機がボルに近づいたが、反乱軍による攻撃で被弾し、乗組員4名が負傷した[13]。翌日、アメリカ政府は民間機と国連機を使ってアメリカ人を保護した。
また、ボルの戦闘が激化するなかで、ボルでPKO活動を行う韓国軍が、ジュバで活動している陸上自衛隊は、5.56mm小銃の弾薬1万発を要請し、自衛隊は、国連を通じて銃弾を韓国軍に提供したが、この提供をめぐって日本政府と韓国政府の言い分が異なり、両国の政治的対立が再び表面化した[14]
戦闘が継続するなか、AUと東アフリカ諸国が参加する地域機構、IGADは、キール大統領とマチャル元副大統領の双方に停戦を求めた。大統領はマチャル派に対し無条件で話し合いに応じることを求めたが、マチャル派は拘束されているクーデターの容疑者全員の釈放が話し合いの条件だと述べた。現在、IGADの仲介の下、エチオピアの首都アジスアベバで大統領派と反大統領派双方の代表が集まり、停戦交渉が行われているが、両者とも話し合いの条件について譲歩する構えをみえていない。
注目は、今回の戦乱におけるウガンダの介入だろう。内戦中、ウガンダ政府は、北部で活動していた反政府組織LRA(神の抵抗軍)と対抗するために、SPLM/Aを支援していたが、内戦後もウガンダ政府と南スーダン政府は友好関係にあった。ウガンダのムセベニ大統領はキール大統領の盟友とも言われ、キールはムセベニから政治的手法を伝授されていたとも言われる[15]。今回の戦闘で、ムセベニは一貫してキール大統領への支持を表明する一方、マチャルに対しては停戦会議に応じなければ軍隊によって反乱軍を鎮圧すると述べた。そして、ウガンダは、すでに国軍(UPDF)を南スーダンに派遣し、空港と大統領官邸の護衛にあたらせるとともに反乱軍の基地への空爆を行っている。一方、マチャルはムセベニの軍事介入を強く批判し、ウガンダは停戦会議の仲介役にふさわしくないと述べた。
和平会議を前に、マチャル率いる反乱軍は、国内の主要都市、ボル、ベンティウ、上ナイル州の大半を制圧、再制圧したが、これは交渉を有利に進めるための戦略と考えられる。一方で、主要都市の奪還に失敗した大統領派は、ジョングレイ州で活動するデイビッド・ヤウ・ヤウ率いる反政府組織と停戦し、油田地帯の守備を目的とした南北混成部隊を配備についてスーダンのバシル大統領と合意する[16]など、さまざまな手法で戦局の打開を図っているようだ。
アメリカをはじめ先進国は、表立った軍事介入を行ってはおらず、南スーダンの状況を見極めているかにみえる。ジュバでの銃撃後、オバマ大統領は南スーダンにおける軍事的手段による政府の転覆は認めないと発言し、これはマチャルの反乱を非難するものだった。しかし、和平交渉が行き詰まりをみえるなか(そしてキール政権による市民の虐殺の事実が少しずつ明らかになったからだろうか)、アメリカはキール大統領に対して拘束した政治家すべての釈放を要求した。また、中国もアジスアベバで両派の代表に会い、和平交渉の仲介役に名乗りをあげている。
今後の和平交渉の進展については不透明なままだが、もしキール大統領が釈放に応じなかった場合、国際社会はキール大統領に対する不信感を深めるだろう。中国は油田地帯の治安をまず安定させることが狙いかもしれない。一方、IGDAの一員として和平交渉に参加しているウガンダはキール大統領を支援し続け、南スーダンへの軍事介入を続けるだろう。両派の和平交渉は、国連や国際社会、隣国のアフリカ諸国、そして何より国内の戦局に左右されると考えられる。

戦闘の周辺から
 南スーダンは60以上の民族集団からなる多民族国家だ。現在、戦闘は主にディンカとヌエルの間で行われているが、この2つの主要な民族集団を合わせても全人口の45%を占めるにすぎない。国家収入の98%は石油収入であり、目立った産業はない。独立後、地方からジュバに移住する人たちが増加しているが、今でも人口の80%が農村部での牧畜や自給的農耕を行いながら生計を立てている。
南スーダンは、ディンカが多数を占めるバハル・エル・ガザール地方、ディンカとヌエル、シルック、アニュワなどが混住する上ナイル地方、そして首都ジュバが位置しザンデ、バリ、ロトゥホなど25以上の民族集団からなるエクアトリア地方に大別される[17]。私の調査対象であるロピットは東エクアトリア州に居住している少数派の民族集団である[18]。現在、SPLA3分の2はディンカ人かヌエル人であり、ロピットを含めエクアトリア地方の出身者はその人口に比して少ない。与党SPLMの政治家の多くもディンカ、ヌエル人で占められているため、彼らの政治的発言力は弱い。
SPLM/Aは結成当初、リーダーのジョン・ガランをはじめ司令官のほとんどは、ディンカ人かヌエル人だった。数年後には、エクアトリア、ヌバなどスーダンのさまざま地域の人たちが兵士として参加したが、ガランを中心とした指揮体制に変化はなかった。1991年、ヌエル人やシルック人の司令官たちが、意見の違いからガランに反旗を翻した後、ガランはSPLAトリット派(主流派)を結成した。エクアトリア出身の兵士の多くはトリット派にとどまり、ガランはエクアトリア人からの支持を得るため、彼らを司令官たちとして重用するようになった。しかし、2002年以降、分裂したマチャルらとの和解が進み、彼らが再び政権側に戻ってきたことで、SPLM/Aは再びディンカ人、ヌエル人主体の組織に戻った。しかし、SPLM/Aが両者主導の組織であることは、エクアトリア地方出身者が北部との戦いに消極的だったということを意味しない。2度の内戦の間、エクアトリアのさまざまな地域の人たちが兵士としてハルトゥーム政府との戦いに参加し、著名な政治家、軍人も多数輩出されているからだ。それにもかかわらず、現政権内はディンカ、ヌエル人によって占められている。
 ロピットは2度の内戦中、幾度かスーダン軍の攻撃を受け、多くの住民がウガンダ、ケニアなどの隣国の難民キャンプに逃れた。また、ハルトゥームで仕事に就いていた人たちも少なくない。多くの集落は1991年のSPLM/A分裂後も一貫してガラン派を支持してきたが、いくつかの集落は反ガラン派を支持し、スーダン軍にリクルートされ北部側の兵士として戦った人もいる。独立後、彼らは、新政府の下でインフラの整備や農業開発、教育、衛生環境の改善といった生活レベルの向上を期待したが、遅々として進まないインフラ整備、地方の政治家たちの汚職、改善されない雇用機会といったさまざまな問題が解決されないなか、今や新政府に対する期待感は薄れ、むしろ不信感が募っていると感じる。
私は、ジュバでの銃撃の数日後、一度だけ彼らの集落を訪れた。村に向かう途中であう住民たちはふだんより銃を手にもった人たちが多かった。調査村に着くと、住民たちは、手にもったラジオに耳を傾け、刻々と変わる政治情勢を把握しようとしていた。私は彼らに別れの挨拶をしつつ、この状況をどう思うか聞いてみた。話をして気づいたことは、彼らにとって、今回の戦闘はあくまでディンカ対ヌエルの戦いであるという認識だった。銃を手に持っている住民は目立ったが、まだ両者の戦闘に積極的に関わろうという姿勢はみられなかった。こうしたロピット人の態度は、内戦中も同じようなものであったようだ。
1983年の第二次内戦当初、ロピット人は、SPLM/Aをディンカ人の組織であり、戦闘はディンカ人による反乱だと理解されていたため、彼らは積極的に関わろうとはしなかった。しかし、その後、隣接するパリ[19]やロトゥホ[20]の人たちが次々とSPLAに参加し、エチオピアで訓練を受けた兵士たちが故郷に戻り、隣接する集落に対してウシの略奪や強盗、女性へのレイプをするにつれて、ロピットの中にも武装して集落を守るべきだという意見が強くなり、SPLAに参加して武装するようになっていった。しかし、それでも隣接する民族と比べれば、軍への参与は低かったと言える。ロトゥホやパリの集落のほとんどは第二次内戦中に地上軍-スーダン軍もしくはSPLA-の侵攻によって壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、ロピットの集落がほぼ無傷だったのも、戦争から一歩ひいた彼らの姿勢にもよると考えられる[21]

おわりに
南スーダンは、2度にわたる内戦を経て、国家の中枢から辺境の農村にいたるまで広く銃がいきわたり、政府だけでなく住民レベルでも武装が進んだ。内戦後も軍事化された政治体制は、本質的に変化することなく存続しつづけ、むしろキール現政権は大統領への権力集中とトップダウンの政治体制を強化しようとした。一方で、政府に反対する地方の軍閥、民兵組織は自分たちの集団を守るために存続しつづけた。こうした軍、民兵組織は、ディンカ、ヌエルに限らず、ほぼ単一の民族集団、クラン出身者によって構成されている。内戦後も民族間の対立は各地に残り続け、政府は戦闘を防ぐために武装解除を行ったが、それはしばしば強制的かつ一方的であるために各地で反発を招いた。また、政府内の汚職と縁故主義も解決されないまま、一部の政府高官、軍人だけが利権と報酬を手にし、貧富の格差は拡大している。都市での極端な物価の高騰とわずかしかない仕事のため、国民の多くは農村に居住せざるをえない。それでも、より恵まれた教育、衛生環境を求めて、都市に移住する人たちは年々増加し、ジュバ近郊は各地からの移住者であふれている。彼らのほとんどは、都市に出てきても、出身の民族集団、クラン、コミュニティの中で築かれたネットワークを基盤に生活しており、生活水準はきわめて低い。
こうした状況の中、今回のジュバでの銃撃が起きた。首都における親族、友人の状況は、携帯電話などを通じてすぐに地方に伝わったと想像される。ジュバでの銃撃戦の後、政府がメディアに対しヌエル人を標的にした虐殺の事実を隠ぺいし続けているが、同胞の虐殺を知った人たちは直ちにディンカ人への報復を行い、野心的な政治家であるリエック・マチャルの下で反乱を起こした。そして、大統領側と反乱軍との一進一退の攻防は今も続き、和平交渉も目立った進展がない状況だ。
しかし、両者の争いにばかり目を向けてはいけないだろう。ほとんどの国民は戦闘の当事者ではなく、被害者だからだ。すでに数千人の犠牲者が出て、数百万人が避難民となっている。そして、ロピットのような中央の政治から遠ざけられ、周縁化されたマイノリティにとって、今回の戦乱は「声をあげられ」、「もてる」者たちの戦争だ。「声すら届かず」、「もたざる」人たちがわずかに抱いた新国家への期待は再びかき消されようとしている。

参考資料、文献、インターネットサイト
Al Jazeera (http://www.aljazeera.com/)
allAfrica.com (http://allafrica.com/stories/201312190295.html)
BBC Africa News (http://www.bbc.co.uk/news/world/africa/)
the gardian (http://www.theguardian.com/world/south-sudan)
Gurtong Trust (http://www.gurtong.net/)
Human Rights Watch (http://www.hrw.org/africa/south-sudan)
Radio Dabanga (https://www.radiodabanga.org/)
Radio Miraya (http://www.radiomiraya.org/#gsc.tab=0)
Radio Tamazuj (https://radiotamazuj.org/)
South Sudan Net (http://www.southsudan.net/)
South Sudan News Agency (http://www.southsudannewsagency.com/)
Sudan Tribune (http://www.sudantribune.com/)
UNOCHA South Sudan (http://www.unocha.org/south-sudan/)
The catch-22 of security and civilian disarmament: community respectives on civilian disarmament in Jonglei State, SSANSA (South Sudan Action Network on Small Arms), 2013.


[1] アフリカ54番目の国家であり、現在、世界でもっとも新しい国である。
[2] South Sudan News Agency (http://www.southsudannewsagency.com/opinion/columnists/the-slain-must-rise) によれば、政府は海外メディアの特派員に対し避難民や病院に近づくことを制限している。
[3] 1991年、当時SPLAの司令官であったリエック・マチャル、ラム・アコル、ゴードン・コンは最高司令官であるジョン・ガランとの意見の違いから、SPLAナイル派を結成した。一方、ガランはSPLAトリット派を結成し、両者は対立した。1991年、ナシル派はジョングレイ州のボルで主にディンカの市民2000人を殺害した。この事件は、ボル虐殺事件として知られ、キール大統領はマチャル副大統領を批判する際に、しばしばこの虐殺に言及する。
[4] 2006年には、政府の武装解除に応じたヌエル人がムルレ人の攻撃を受けるようになり、その後、ヌエルの再武装が進んだ。また、ヌエル人が移住した時、SPLAは彼らに武装解除を求めたが、ヌエルの民兵組織、白軍は、ウシを守るために銃が必要だと主張し、敵対するムルレを先に武装解除すべきだと主張し、白軍とSPLAとの間に戦闘が起きた。その後、反政府組織SSDFとヌエルの住民が白軍に参加したため、ヌエルと政府との関係はさらに悪化した。
[5] Dr. Peter AdwokRadio Dabanga(https://www.radiodabanga.org/node/62045)に事件の詳細を語った。SSNAの記事でも、いくぶん内容は異なるが、ヌエル兵にだけ武装解除が命じられたことに対する反発からディンカ兵とヌエル兵の間で戦闘が始まったと報告されている。
[6] Tiger Battalionと呼ばれ、キール大統領に忠実な部隊とされている。ディンカ、ヌエル双方の兵士が所属している。
[7] Dootku Banyと名付けられた民兵組織で、2年前からキール大統領自らが出身地であるバハル・エル・ガザール州やワラップ州から若者たちを呼び寄せ組織した。民兵のほとんどは政府軍のような訓練を受けていない。
[8] SSNAによれば、ディンカ人の民兵が各家を回って、家の住人がヌエルかどうかを尋ね、ヌエル人と思われた場合は、その場で射殺するか、逮捕後に人気のない別の場所に連行してから射殺を行った。 (http://www.southsudannewsagency.com/opinion/columnists/nuer-massacre-committed-by-kiirs-presidential-guards)。また、Human Rights Watchによれば、戦車で家に突っ込んで破壊し、住民を押しつぶしたという報告もある。ジュバでの大量殺戮はディンカ兵士がヌエル市民に対して行うと同時に、ヌエル兵もディンカ市民に対して行ったと思われる。(http://www.hrw.org/news/2013/12/19/south-sudan-soldiers-target-ethnic-group-juba-fighting)
[9] Sudan Tribune (http://www.sudantribune.com/spip.php?article49410) およびSouth Sudan News Agency (SSNA http://www.southsudannewsagency.com/news/press-releases/massacre-of-nuer-civilians-at-the-hands-of-president-kiir) に大統領護衛部隊Tiger Battalionによるヌエル市民の虐殺に関する記事が掲載されている。ある海外メディアのジャーナリストは虐殺については知っているが、証拠となる遺体や共同墓地がどこにあるかがわからないと話した。政府は、ジュバ市内での死者を約500人と発表しているが、被害者はそれ以上の可能性がある。
[10] この戦闘でディンカ人のSPLA司令官2名は死亡したとみられている。
[11] マチャルによれば、ウガンダ国軍(UPDF)の戦闘機による攻撃を受け、反乱軍の主力部隊はボルから撤退した。
[12] ヌエルでSPLABlack Army(黒軍)と呼ばれており、黒軍に対置してWhite Army(白軍)と名づけられた。多くのメディアでは、ウシの排せつ物を燃やした後の白い灰を体に塗っているからという説明がなされている。
[13] SSNAによれば、反乱軍はオスプレイをウガンダ国軍の戦闘機と間違えて攻撃した。
[14] ことし韓国軍は自衛隊から提供された銃弾を国連を通じて返還すると発表した。
[15] ムセベニ政権は国内では大統領への権力集中を図り、対外的には自国の有利になるような介入をしていると言われている。例えば、DRC(コンゴ民主共和国)の反政府軍はウガンダの支援を受けている(http://www.southsudan
newsagency.com/opinion/articles/ugandan-president-has-a-deadly-hand)。また、今回のように民族対立を利用して民族分断を図るキール政権の政治手法はスーダンのバシル政権の手法と似ているという指摘もある。
[16] 南スーダン政府はスーダン政府にSPLAとスーダン軍が共同して油田地帯を守ることを提案したが、具体的な話し合いは行われなかった。
[17] この地方区分は、トルコ=エジプトの侵入後、イギリスの植民地支配下で確立した。独立後の南スーダンでは、バハル・エル・ガザールは4州、上ナイルは3州、エクアトリアは3州にわかれる。
[18] ロピットは言語分類上、東ナイル系に属し、隣接するロトゥホやランゴ、またケニア、タンザニアに居住するマサイと近縁である。口頭伝承によると、ロピットを含めたプレ・ロトゥホの人たちはケニアとエチオピアの国境にまたがるトゥルカナ湖周辺に暮らしており、それから東に移動し、現在のような各民族集団に分かれた。
[19] 西ナイル系の民族集団。ロピットの北側にあるラフォンを中心に居住している。
[20] 東ナイル系の民族集団。ロピットとは言葉、慣習、社会制度がよく似ており、通婚することも多いが、相互にウシの略奪を行い、しばしば政治的にロピットと対立する。
[21] ロピットがSPLAを支持しながら、直接の戦闘に関わろうとしなかったということはしばしば村人から聞かされる話である。そのため、彼らは隣接する民族集団の人たちからは「臆病な人たち」と揶揄されることもある。

■執筆者紹介

村橋勲(むらはし いさお)
2005年、京都大学大学院で修士号取得。2006年から7年間、NHKにて報道カメラマンとして勤務。2012年から大阪大学大学院人間科学研究科博士課程に入学
■詳細プロフィール

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